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2004年 1〜9月

 しばらく淡々と生きることを信条にしてきたので、今年はちょっと濃い感じでいこうかなと考えてます。薄味であっさりしたのもいいんですが、ちょっと喉が渇きそうなきつめの味付けでいきます。いいなあ、そんなことを年の初めに宣言してしまって、その勇気にまた驚いてます、自分で。

2004.1.5


 乾布摩擦という言葉自体が死語に近いのかもしれないが、僕はずっと寒風摩擦だと思っていた。実際に子供の頃は冬場になると健康のためということで朝起きると上半身裸になってタオルでごしごしと体を摩擦していた。寒稽古というものがあって、これはクラブに入っている人たちだけではなくて全校生が朝早くから登校して、柔道か剣道をやり、父兄が炊き出しに来てくれて一緒に朝ご飯を食べるという行事であった。それがどういうわけか僕の故郷富山では真冬というと雪が降っていたので、吹雪の朝に学校に行き、まずは乾布摩擦なのだ。寒いなあと思いながらやってたから、当然これは寒風摩擦だと思う。母親が特に病弱でもなかったと思うのだが、かなり後まで朝起きたら布団の上でやってたのを記憶している。いまだにやってはいないと思うが。僕の友人の長野生まれの女性などは、馬刺で蓄えたスタミナと朝一杯の焼酎で冬場の寒さに耐えたといってた。中学生の時でさえ、自転車通学はきついので、親も公認していて、ぱあっと一杯ひっかけて出たという。その女性は別にアル中にもなってなかった。寒さに向かっていろんな智恵があるんだろうが、僕の最近の智恵は靴下である。受験勉強しているときも足下にあんかを置いてた。湯たんぽで雪国の大寒に立ち向かってたのだから、考えてみれば足を守ればいいわけだ。特別の耐寒用の靴下は2000円ちょっと出せば手にはいる。高いのだが、これを履いてると頭寒足熱の原理で温かい。それプラスにタイツかな。親父のズボン下とか股引(ももひき)とかバカにしていたんだが、メンズタイツと呼ばれて形を変えているとはいえ、要するに同じだ。それでも、これでもっと寒くなるこれからの季節を乗り切るわけです、寒がりたちは。

2004.1.13


 何年か前に「みんなノイズを聴きたがる」という本を出版しました。この本は僕にとっては初めてのエッセイ集というか、小説ではなくて自らが出版したいと思った本でした。8年前に会社勤めを辞めて自分のオフィスをほとんど他人の力添えで開き、自分の考えでやったことといえば、当時はまだ珍しかったホームページを開いて、毎日某かのメッセージを書くということでした。そこで書いたことから繋がっていったメディアに書かせてもらった文章や、ホームページに載せていた文章をまとめて出版した本が「みんなノイズを聴きたがる」です。そしてまたそれが発端でラジオ番組を作る企画が舞い込み、その番組が賞を取り、その後レギュラー番組を持つことになったりしたので、僕にとっては会社を辞めたことから始まった不安定で自由な日々の象徴が「ノイズ」だったと思います。1999年の秋でしたから、あれから5年目で、実はまた第2の「みんなノイズを聴きたがる」みたいなものを自分が読みたくなってます。そもそもこのタイトルはニューヨークで仕事をしたときに、アンディというエンジニアからヒントをもらった言葉だったんですが、今週またニューヨークに行くので、新しいキーワードが飛び込んでくる予感がしてます。それをタイトルにして、何か自分にとっての指標になるような本を書きたいなあと今は考えてます。

2004.2.2


 目先のことにとらわれるのが人間である。ずっと先を見て状況を判断して行動できることの方が少ない。未来は読めないものだ。だから今こうしたらおそらくこうなるだろうということでしか判断できない。目先のことにとらわれてしまう。たとえば1年後の状態を考えることは難しいし、半年後までにどんな変化があるかなど予想もできない。変化のスピードが加速している。明日のことはわからない。だから今日を一日必死で生きようじゃないかという論理は正しいような気もするが、今を生きるということと目先のことにとらわれて生きるということはまったく違う。目先のことにとらわれずに今を生きるべきなのだと何度も人生は教えている。

2004.3.2


 ここのところ尾崎豊に関わることをたくさんしている。彼の13回忌にあたりいろんな計画があったからだ。僕は直接彼との接点が多かったから、彼の思い出話を求められることもあるし、彼に対する興味が大衆の間にはまだ根強くあることも理解しているから、なるべく飾りのない生の彼の姿を伝えたいと思う。これは僕が彼の生前やってきた役割とは少し違う。当たり前だが生の姿を伝えようと努力はしていなかった。それは生の彼が魅力的でなかったということではない。どんなところに住んで何を食べているかを知らせるようなことはしなかったということだ。僕が彼の残した言葉で好きな言葉がある。もちろんいくつもあるのだが、「少しばかりの時間を無駄にしたっていいじゃないか」というものだ。歌詞にも出てくる。あんなに生き急いだような男が残した言葉である。彼は何か雑誌のインタビューでも話していた。ビルの隙間からきれいな夕日が見えたときにもそう思ったという。少しばかりの時間を無駄にしたっていいじゃないか。僕は時折その言葉を深くかみしめている。 

2004.3.29


 人は大きな目標があると、それに向かって着々と進んでいると思うことで生きる気力がわいてくる。その目標は簡単に達成出来る程度のことでないほうが望ましい。日々の努力目標も必要だが、何年もかかって出来るようなことを一つは持っているべきだと思う。僕ぐらいの年齢になると、それはもしかすると生涯にわたる夢に近いものかもしれない。だからどこか人に話しても笑われないことがいいのだろうが、自分の目標を他人に話すには勇気がいる。娘が子供の頃、マクドナルドのフライドポテトのラージサイズを一人で食べることが夢といってたようなものでは困る。それは目標とはいえないが。実は僕の目標というのが、ふるさと富山の生家を改造してスタジオを作ることである。ここのところ富山には何度も帰るのだが、羽田を出てなんと1時間もかからないのだから、事務所から生家までは4時間もあれば到着する。今は誰も住んでない。父親が若いときに手に入れた家で、何度か改築され僕はそこで生まれ東京に出るまでずっと住んでいた。これだけ音楽の仕事をしてきたのだから、最終的には自分のスタジオを持ちたいとも思う。東京近郊というのも、いろんな意味で興味がわかない。立派なスタジオもたくさんある。のんびりと仕事をするなら、ふるさとの環境につきるんじゃないかと考えた。食べ物も空気もおいしい。旧友もいる。どこか魂の居所が正しい気もする。実現しないかもしれないが、そう思っている自分には元気がある。何とかなることを祈りたい。 

2004.5.17


 規則的な生活を送ることが人の精神にどのような影響を与えるのかに興味がある。規則的というからには同じようなパターンを繰り返すということである。変則リズムであってはいけない。不規則であってはいけない。予測できない動きがないほうがいい。そう考えてみれば、これは規則的な生活を送ることは退屈との戦いでもある。決められたことを決められたように反芻するのだ。体にとってはきっと器官としての対応という意味では規則的な生活はいいはずである。ただ僕が気にするのはやはり心にとっての問題である。毎日毎日僕らは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃわないのかという問題である。サラリーマン的な生活は、全体としてかなり規則的ではある。僕も20年間経験したし、今でもサラリーマンではないが、生活のリズムはかなりサラリーマン的である。つまり規則的なのだ。毎日違うホテルに泊まり続けることと、同じ家に帰ることとはどちらが精神にはいいのか。それをいうなら、毎日同じ女と飯を食うのと違う女と過ごすのとはどちらが気分がいいのか。一概に違う女と違うホテルにいることではないような気もする。かといって同じ部屋に帰って同じ女がいるということでもないような気もする。つまらない人間というジャンルがあるとすれば、自分もそうなのかもしれないとは思うが、そんな人間だと思われたくはないから、判で押したような意見をいい、判で押したような生き方を繰り返している、すなわち規則的な生活をしている男になりたくはないと考える。そう主張するところをみると、やはり自分はそういう生き方をしてるのであろうか。はっきりしているのは、規則的な生活を心がけている男は、その生き方にうんざりし始めるということではないだろうか。他人を見れば人生は波瀾万丈に限る。さて自分はと問われれば、可もなく不可もなく、規則的な生活をするほうが無難でいいと大多数の人は思うのである。すなわち大多数の人は退屈と戦いながら、長いようで短い人生のカウントダウンをし続けるのである。悲しいけれども。 

2004.6.11


 情報を管理することが日常的になったことで、自分の記録がかなり正確に管理されている。だから昔よりも年をとることが早い印象を与える。富士山に登ったのはいつ頃だっけ?みたいなことではなくて、5年前の8月20日というような記録が残っていることが多い。記憶がはっきりするということは足跡が明確に見えてくるから、時間の経緯が早く感じるのではないか。それほど漠然とした遠い過去ではなくなるからだ。もう40になったという話をよく聞く。やっと50だということはない。最近はすべてがなんて早いんだろうか、もうこんな年になったのよ、なのだ。充実感とは無関係に、時の刻みは一刻一刻深くなっているのかもしれない。昔も今も時間の長さは変わらないのだが。記憶が鮮明であればあるほど、時間の経過は短く感じる。あっという間に時間は過ぎて、あっという間に年をとる時代になったのである。

2004.6.22


 つきあってみると意外とつまらない人だったということがある。極論すると、そのほうが多いくらいではないか。ただし、あまり知らないほうが魅力的に見えたのは、すべてがその人のせいでもないと思う。人間なんて実態はそれほど他人には魅力的ではないものだ。自分ですらよくわからないのが自分自身だから、他人は基本的にはよくわからないのが当たり前だ。知らないから魅力になる。知らない分だけが魅力になる。“あばたもえくぼ”というではないか。好きになってしまえば、その人の欠点でさえよく見えるのだ。それでもよく見ると、それはやはり欠点でしかない。マスコミが伝える映像で、人の上に立つ人物が意外とつまらない人に見えたりする。小泉純一郎さんがとてつもなく魅力あふれる男に見えた瞬間もあったし、田中眞紀子さんも痛快だったりそうでなかったりではないか。情報がつまびらかな分だけ、謎が消えて、実像が見えてくると、やはり人間は人間なのだ。あんな人が大臣なのかと憤慨する。偉そうにしている有名人を批判する。だが有名人は偉そうにしているわけではない。偉そうに見えるだけかもしれないではないか。つまらない人が大人物に見えることもある。どっちもどっちじゃないかと思う。突き詰めてみれば、きっと人は丸裸になってみたらみんな同じなのだ。あの人といるとなんだか幸せな気分になるというのも、香水のせいだったり、いつもおいしいものを食べさせてくれたり、愉快な話をしてくれたり、車で送ってくれたり、その人の本質にはあまり関係ないことばかりだったりするのである。逆に、そんなことではなく心の底からひかれるなんていわれると、それはそれで、なんで?と思う。本能的に好きなんてことはあり得ない。というか、それは動物的な欲望の目とか、アイドルに取りつかれる気分と似てるんじゃないかと思う。雄が雌にひかれるというか、雨より快晴の日がいいというか。キムタクが好きということと、わたしはあなたが好きということが同じレベルじゃないでしょうに。最終的にいいたいことは、“知らぬが仏”とは本当によくいった金言であるということです。

2004.7.16


 アメリカ大統領という役割は、なりたいと思うほうが普通じゃないなと思う。世界最強の国のボスである。なりたいと思う人はよほどの権力志向者なんでしょうか。
 男というのは(何度もいいますが)自信に満ちあふれているようで、自分は本当にどうしようもない出来の悪い人間だと思うもの、と僕は考えている。自分で自分が一流だと思っているような男は間違いなく三流である。
 とすると、アメリカ大統領になりたいと思うなんて、衆人環視の中に丸裸で出て行くような感じがする。しかもその衆人の中には自分の親や家族や友人や親戚なんていう人たちも混じっている。どんなに筋肉隆々でもちょっと気が引けるでしょう。人の上に立ちたいとか天辺まで上りたいという想いを持つことは異常じゃないけれども、それが必ずしも歓声で迎えられるだけじゃないわけで、判断のミスが自分の不名誉になるだけではなくて他人の不幸を巻き込むような仕事に、すすんで関わりたいと思うのは普通じゃない。責任が取れる範囲というものがあるじゃないですか。失敗したら、貯金を全部下ろして弁償しますと言い切れるような範囲のことが。大統領の失政は取り返しがつかない。だから優秀なスタッフを取り込む。だけれども、大統領の周りに集まるような人たちはみんな大統領になりたいと思うような人たちだから、普通じゃない人たちばかりの集団になる気はする。衆愚政治という言葉を習ったなあ。
 アメリカ大統領選挙が近づいている。民主党と共和党の戦いである。ブッシュとケリーのどちらがいいかというよりもどちらの政党に政治を任せるかということである。日本みたいに曖昧な無党派層というものはない。ペットにするのにイヌかネコかを選べといわれれば選びやすいが、マルチーズかコッカスパニエルかといわれたら選ぶほうは迷うし、結局はどちらもそう変わりはしないという気持ちになるのである。ああ、政治離れ。

2004.9.3