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2005年 10〜12月



 ある夜突然目が覚めて眠れなくなる。仕方がないので軽くのどを潤してからテレビをつける。どうしてテレビをつけるんだろうか。少しの灯りがほしいのか。テレビをつける瞬間に無意識な自分の動きに嫌な気分になる。なのにテレビをつけてしまう。その日テレビには地下鉄の車内の映像が映し出されて、それはどうもニューヨークの地下鉄のようだったが音を消しているから僕はそこで展開される映像の顛末をただじっと見ていた。口を開いた男が老女になじられて激昂する。反射的につかみかかろうとして男は別の男に撃たれる。音声は何も聞こえない。そこで僕はテレビを消す。煙草を吸って雑誌をめくって数分後にまた僕はテレビをつける。今度は撃った男がベッドで女と寝ている。女の髪をなでて目を見つめあい、その女が何かをいったとたんに男は激昂し、女の首を締め上げる。そこで僕はテレビを消す。リモコンを手の届かないところにおいて、ソファに横になりやがて僕は眠りにつく。翌朝目が覚めて僕は地下鉄で男を撃ちベッドで女を絞め殺した夢を見たと思う。人生なんて一瞬の夢じゃないか。

2005.10.12

 人からやれといわれたことにどんなに精進しても、なかなか成果を得られない。それに反して自分の心に浮かんだことに突き動かされて行動したときには予想以上の成果を得られるものだ。ということは人は自分自身の内面と直接向かい合って歩く方向を決めなくてはいけないということなのである。君は何がやりたいのか、何がほしいのか、どうなりたいのか、それを自分に対して問いかけることだ。そして出てきた答えに立ち向かうべきである。そこで人は成長する。それだけは確かなことだと学習してきた。
 何度もここで書いていることで恐縮だが、来月の尾崎豊のバースデイスペシャルに関して少し補足したい。彼が亡くなってからずっと行われてきたイベントだが、今年は東京、大阪、名古屋の3カ所で開催されることになっている。僕自身もゲストとして参加したり、ある時期からは主催者側に立ち開催する役目をなしてきたが、今回のイベントで一度区切りを付けたいと考えている。誤解を招かないようにいうが、僕がこのイベントの進行役をするのは今回が最後になると思う。本当にいろんな方々の理解と協力があり実現してきたイベントであり、なくしてはいけない会なのだが、僕と尾崎豊との関係においては今回のイベントで僕の役割はいったん落ち着かせたいと考えている。だから長年応援してくれた方がたにはぜひともその場所でご挨拶ができお会い出来たらと思っている。その日の一期一会を夢見ている。楽しみである。ちょっと切ないけれど。

2005.10.18

 時は流れない、積み重なるものだ。
 君の人生を豊かにしなさいということを若い人によくいう。人生を豊かにするというのはどういうことですかと聞かれる。そんなときに僕はこう答える。
 「たとえば15歳のときに読んだ小説をいま読むと、その当時わからなかったことがわかるし、いくつになっていても15歳の自分の心にすぐに戻れる。25歳のときによく聴いていた曲をいま聴くとその当時に戻れた気がするし、その頃からの時間の流れをリアルに感じ取れる。つまりどんなときでもいまが大切で、いまの自分は過去からの自分の積み重ねの上に生きているんだね。時は流れて過ぎていくものではなくて積み重なっていくんだよ、だからその積み重ねで人は少しずつまるで重ね着をするように大きくなれる。そうして生きていくことが豊かになるということだと思うよ。だから自分の心に染み渡るようなことになるべくたくさん出会い経験していくことが大切なんだと思う。振り返って自分の心を揺り動かした映画や音楽や芝居や本などの作品、そして人との出会いや恋愛や情熱などをたくさん抱えているほど豊かじゃないかな」
 終わってしまえばすんでしまうことなどひとつもなく、忘れてしまいたいことですら積み重なっていくのが人生ではないか。薄い層が何層にもなってその人の人生を豊かにする。そんな考え方で僕は音楽の仕事をしている。
 まさしく時は流れず、積み重なっていくことを実感する。

2005.10.24

 FALSE ACTIONという言葉がある。間違った行動、予想外の行動とでも訳すのか。これを僕が最初に聞いたのは大学生のときで、しかも演劇に関する授業のときだった。ウェスカーという作家がいて、その彼の作品についての特色を教授が述べているときに出てきた。例えば家族の誰かが山菜採りに山に行く。暗くなっても帰ってこない。おかしいねえなどと話が出ているうちに風が強くなっていきなり雷が鳴り雨が降り出す。そうするとこのドラマを読んだり見ている人たちはきっと山に入った人は遭難するんじゃないかと想像する。急ブレーキの音がして役場の関係者が玄関から飛び込んでくる。家族はみんな息を飲む。これに続くシーンは「大変だ!」という台詞が来るべきだと誰もが思う。そんなときに役場の男と思われたのが隣の坊主で醤油を借りにきただけで、しかも遭難しているんじゃないかと思われた男は一杯引っ掛けて真っ赤な顔で帰ってくるとする。そんなふうに読み手や観客の想像を裏切る、これがフォルスアクションである。みんながそうなると思うような状況を作り上げて、それを裏切る手法である。
 最近はドラマなどの作り物ではない現実でもこのフォルスアクションが多い気がする。つまり人の行動パターンが多種多様になった。本来ここは遠慮すべきところというところで遠慮しないほうが当たり前になったり、ぶしつけだと考えられていたことがしゃれてる印象を与えたりすることもある。要するに常識が欠如してきたのだ。正確にいうなら、常識がなくなったのである。みんなが一様に感じること、みんなが一様に反応することが少なくなってきているのだ。ドラマのエンディングが必ずハッピーエンドじゃおかしい。人生の節目節目は必ずしもハッピーではない。そうしたらそれは常識というくくりがおかしいということに気づいたのである。嫁いだ娘が幸せな結婚生活を送り孫を連れて帰省するとは限らず、夫婦関係に疲れて性格も悪くなってアル中になって戻って来ることもあるというのが現実ではないか。
 僕たちはいつの間にかFALSE ACTIONだらけの世の中に生きているのである。   

2005.11.15

 「結婚しない女」と「就職しない男」は、どこか似ている。そして「結婚しない女」も「就職しない男」もどんどん増えている。どちらもいままでの常識を逸脱しているという点で似ているのだろうか。常識を逸脱しているという言い方よりも常識ではとらえきれないというべきか。ともかく長い間、女は適齢期になると結婚して家庭に入り、男は仕事を持つことで社会人になれた。それが人生の大人としての出発点であるかのようにいわれてきた。ところが正反対の価値観が世にはびこり始めたのだ。もう20年以上前ぐらいからその前兆はあった。どこか自由でいたいという発想が根底にはある気がする。結婚することで女は自由を失い、サラリーマンになることで男は束縛された人生を送ると思い始めたのである。自分たちの親がそういうふうに見えたのだろう。そしてフリーターの増加に加えてニート呼ばれる一見無気力な人たちが出てきた。彼らは無気力なわけではなくて自分たちが新しい考え方をもっていると密かに確信していたわけで、すべての規制から解放されたがっているのだ。女たちもしかり。誰かのために自分の時間を制限されずに生きることに喜びを感じ、しかも社会的な責任を持つことのほうが家庭の責任を持つなんてみみっちいことよりは遥かに充実感があると主張する。このまま結婚しない女と就職しない男が増え続けたらどうなるか。簡単なことだ。子供の数が減り、夫婦の数も減り、1LDKの部屋が増え、孤独な老後をむかえる人も増え、世の中は金を持った女と金のない男ばかりになる。「結婚しない女」が結婚出来なくなった女と気づく前に、そして「就職しない男」は就職出来ない男になってしまう前に、豊かな人生とは何かをもう一度考え直してみなくてはいけない。人生はいつか終わることを忘れてはいけない。

   2005.11.29