| m&m Back Number 2005年 1月2月 |
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空港で携帯電話をしていた女性が突然大声を出した。「わたしのせいじゃないよ!」と何度もいう。羽田も到着予定地も雪模様で、天候調査で出発が遅れていた。そのことを迎えにきてくれる人に知らせていたのだろうか。きっと迎えにくる人に対する気遣いから電話したんだろう。時間の調整をしてわざわざ来てくれるんだろうから、遅れるかもしれないということを連絡したのに、あいにくいい返事がなかったに違いない。 2005.1.5 報われることがない努力は美しいのか。疑問です。一心不乱に目標に向かって自分を向かわせる。努力する。これは志としては間違ってはいないんですが、その目標設定が正しくないと、その努力は努力ではなくなる。無駄が悪いとは思わない。無駄なことは人を成長させることも多い。しかし例えば空を飛ぼうとする。だから屋根の上から風呂敷を広げて何度も飛び降りていればそのうち大けがをするだろうし、下手をすると致命的なけがをするかもしれない。その努力は美しくもないし、それを努力とは呼ばない。気持ちが通じない人に対して波動を送り続ける。見つけ続ける。しゃべり続ける。ただの迷惑になることも多い。相手を傷つけたりもする。通じないことの理由があるから、その理由を考えなければ、思い続ける祈りなど自分勝手なわがままな思い込みでしかない。人にとってはいやなことなのだ。努力しているのになぜか報われないと嘆く。それは努力ではないということに気づかなくてはいけない。馬鹿な自分を美しいと思っている人はめでたい。めでたい人はお囃子の幻聴の中でいたずらに時間をむさぼる。努力している人は感傷に溺れることなくしらふでなくてはいけない。断食している人は自分が空腹ということを忘れてしまってはいけないのである。 2005.1.12 特別話題にもならなかった映画のDVDをたいした理由もなく何となく買ってしまって、あいた時間にまったく期待もせずに時間つぶしのように見たのに胸を打たれてしまう。またあるときは空港で登場時刻までの間の時間つぶしのために薄い文庫本を買って読み出すと取り憑かれたように引き込まれる。どちらも作った人の何かがこちらの心に直接つながった瞬間とでもいうのか。無警戒に見たり読んだりした分だけ不意に急所をやられてしまったかのようである。作品の命というか脈動みたいなものは、本来そんなふうに人に感じられるのが理想ではないかと思う。まるで恋に落ちるように作品に取り込まれてしまう。気持ちがワクワクして躍り出し強い喜びを感じる。時空間を越えて人間同士がつながった瞬間である。自分が関わった音楽や文章が、そんなふうに誰かの心に入り込むことがあればと願う。 2005.1.19 ID とかパスワードが多すぎて煩雑になっている。パソコンは便利でいいんだが、どこに侵入するにも身分証明番号とパスワードが要求されて、いちいち書き留めるのも億劫になり、曖昧な記憶のままにしておくと必ず使えなくなる。忘れてしまうのだ。書き留めておいてもそれが数が多すぎて何がどれに対応しているのかが、わからなくなる。銀行のカードをスキミングされて預金を下ろされた人が銀行のセキュリティに文句をいい訴えたりしているが、それは筋違いじゃないかと思っていたら、あのカードは銀行の所有物で貸しているだけなのだという言い分を聞いて、だったらもう少し対策を講じたらどうかと思い直した。ATMで一度におろせる限度額を自分で設定出来るような対策をし始めているが、預かっておいて自由におろせるサービスを提供しているだけだから、ではすまないでしょうに。 2005.1.26 やる気のない人には、やる気をなくしている理由というものがあるのだろうか。「気合いだー」という言葉が昨今はやっていたが、まさしく困難なことをやり遂げるには気合いがいる。やる気のない人間と一緒に仕事をすると気合いが入らない。やる気をなくしている人にはその理由があるのかと書いたが、本当はないのではないかと思う。やる気というのはユーモアと同じで、ない人にはない、のではないかと最近思うようになった。理由があるとすれば、それはやる気がないことをなんとか正当化しようとしている自己弁護のためではないのかな。別にやる気がなければないでいいんだが、そういう人と一緒に何かをやりたくないだけである。やる気のないことは間違いではない。ユーモアのない人はなくていい。ただあまり近くにいたくない。やり遂げることが難しいことに挑戦してやり遂げる。こんな喜びを避けて通りたい人間などいるわけがない。一緒にやり遂げることに意味がある。そう考える人と手を取り合って喜びを分かち合いたい。それが仕事だと思う。だから仕事をするにはやる気のない人はいらない。 2005.2.4 毎日顔を合わせている人は何人いるんでしょうか?顔を見て言葉を掛け合うことが出来る人が何人いるんでしょうか?コミュニケーションとは単に伝言し合うことではなく双方が相手のことを理解しようとしないと成立しませんから、顔を見て言葉を掛け合うように言葉に温度を感じないとダメです。メールは伝言のような気がします。そして伝言で十分のときもあるわけですから、いざというときは顔を合わせて話をすることが出来る環境にしておきたいものです。顔を見て話をするということは簡単そうでなかなか出来ないことです。電話やメールですませるということが人間関係を希薄なものにしていきます。いろんな事情で直接会うことが出来なくても、最終的には顔を見て話をするということが重要なんだと実感してます。 2005.2.15 |
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