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2005年 6月〜
9月

 自分の考えを押し付ける気持ちなどないという。だが押し付けている。発言するということは主張に責任がつきまとう。わたしはこう思うだけなんですという。そうですか、あなたの考えはそうなんですかと聞かれれば、いや違いますとはいえない。つまりは自分の考えを人に対して突き出している。あなたはあなた、わたしはわたしですから、ただわたしに考え方を話しているだけですという。だったらいったことには責任を取りなさい。いいっぱなしはいけない。そう思われたくないなら考えることは自由ですが、話してはいけない。外に向かって言葉を発するということは自分の意見を主張しているということだから、話したことには責任を持たなくてはいけない。独り言ではすまない。
 まるで日記を書くように書いたことを公開して、それが誰かを傷つけたりしていることに気づかないでいる。公開するということは書いたことに責任を取るということである。それがいやなら、簡単に自分の意見を書くべきではない。書いてはいけないのではなく、書くからにはそれなりの覚悟をしなさいということである。

2005.6.14

 世の中には男と女しかいないわけですから、男と女の関係を表現したいい文句がたくさんあり、目に止まります。独身主義者だった僕の友人が話してくれた言葉で「結局、男は飯がうまい女のところにいくんだよ」というのもなかなか味わいがありますし、「女は火だよ、暖まっているうちはいいけれど近づきすぎるとやけどする」というのもなかなかいいですし、「もう何もいらない、金も名誉も何にもいらないから、たったひとついい女がほしい」といった男の言葉も説得力があるといえばある。男と女の関係において不道徳なことなどまったくないといいきる友人は、ただそれをしゃべることは不道徳だといった。
 夫婦というのも元々は他人ですから、これがどんな理由であるにしろ、一緒にずっといるほうが奇妙です。いやなところにうんざりして別れてしまうほうが自然といえば自然で、だから添い遂げる夫婦というのは奇跡のようなものです。よっぽど相性がいいのかなと照れ笑いをして夫婦仲の良さを話してくれる人に、相手が優れているんです、間違いなく、といってる人を見ました。
 セクハラというのも、男の一言に腹が立つのは言葉に対してじゃなくて、その男が嫌いということだけじゃないでしょうか。ものすごく化粧をしていい香りをさせている女に腹が立つということもあるんです。口に出して男はいいませんが。
 狐と狸の化かし合いという言い方もありますが、持ちつ持たれつ、仲良くしたり喧嘩したり、男と女は果てしなき自己顕示と縄張り争いというか権力闘争をし続けているんじゃないかな。

2005.6.20

 もう二度と会わないであろう人にでさえ、人は気をつかったりする。その場限りの相手に誤解されても、どうってことないじゃないかと思うが、人は気が小さい。タクシーに乗って二、三、会話を交わして運転手に道順を教えたときにでも、運転する人の判断に任せたほうがよかったんじゃないかと考えたり、「普段自分が運転する時の道順なので...」とことわったりしている。運転するほうの立場であれば、客が指定した行き方で行ったほうが気が楽で、それよりはこちらのほうが近いですよということもいわない。そっちはクールなのに、金を払って乗っているほうがやたら気をつかっている。売店で細かい端数がなくて大きな紙幣を出したときにも、「すいません小銭がなくて...」と頭を下げている。もう会うこともない人にそうなんだから、また会う可能性があればなおさらである。だから社会生活は疲れるのだ。だから内側にいる家族や恋人にはわがままになる。簡単な構図ではないか。内側にいる人間と外側にいる人間の違いである。わがままをいわれるということは身内だと思われている証拠のようなものだ。だから腹を立てない。許してあげましょう。

2005.7.12

 大衆性ということについて考える。
 夏目漱石という大作家を知らない人はない。「我が輩は猫である」などというおかしなタイトルの小説を初めて知った時に子供心に他の大作家とは違うなと感じた。彼はロンドンに留学していた英文学学者であると同時に、最もハイカラなセンスを持っていた明治人だった。ユーモアは大衆性に通じるわかりやすい要素である。しかし彼の生きた時代での彼のセンスは落語や英文学に精通していないとわからないたぐいのユーモアが多かったのでインテリ向きだった。それでもいま読んでみても、夏目漱石の書いた本は食べやすい食べ物である。ハイセンスではあるが、どこか大衆性をかね備えていたのである。
 芸術家に対してその時代が与えた評価と後世の評価とが一致しないこともある。時代における異物感とか違和感であろうか。突然変異のように新しい形をしたものに対して大衆は正当な評価を与えたがらない。保守的だ。長い時間帯で見たときに文化や芸術全体の進化のために、そのアーティストが果たした役割が明確になることもあるのだ。評価が上がることもあれば下がることもある。
 大衆性というものが、その評価に関わる意味合いは大きい。大衆に迎合するようなものは一時的に受け入れられやすいが、飽きられやすく、結果として強い支持を得られない。本当の大衆性は一部の人に熱狂的に支持されて、その温度が時間が経つに連れて伝導するようなものであると思う。
 いま一般大衆の圧倒的な支持を得ているものを見渡したときに、本当の大衆性を獲得しているもの、または本当の大衆性を持ち得ているものが判断出来るであろうか。
 夏目漱石の小説は現在も大衆性を持った作品といえるかどうか、むずかしいところである。書棚の肥やしになってはいないか。マスコミに煽動されることなく、自分たちの目で耳で心で支持するべきものを見つけ出しているだろうか。大衆は利口なのだ。大衆性が有効である時代でなくてはいけない。

2005.7.28

 「NOBODY」という映画雑誌がある。僕の知人がスタッフのひとりである。雑誌の中に取り扱い書店が書いてあるが、残念ながら書店で見かけたことはない。サブカルチャー雑誌としてはかなりこだわりのある編集で読み応えはあるが、応援しようにも相当の雑誌好きか映画好きでない限り知っている人は少ないと思われる。僕が携わっている音楽の世界でいえばインディーズである。読者にこびないでいられる分だけ運営が大変だろうなと思う。余計な心配ですと怒られそうだが。
 マイノリティが次のサブカルチャーの発芽を促している。既成概念からどこまで解放されて作れるかにかかっているのではないかと思う。少数派としての開き直りが必要である。よく似たものを作るくらいなら作らないほうがいい。弁当屋にパンが並んでいることはないから、並べてください。

2005.8.26

 近くの公園で911テロをモチーフにしたイベントをやっていた。平和運動の一環としてイラクの反戦運動家の来日を伝えピースウォークへの参加などを呼びかけられて、様々な団体が出店しているのを見た。一回りしてバンドが音楽をやり始めたと思ったら雷鳴が轟き土砂降りの雨である。すべての催し物は中止になり、人々は大慌てで帰り支度をして、集まった人たちも木の下に避難したり近くの店に逃げ込んだりした。雷は小一時間で収まり、今度は静かな雨になった。折しも衆議院選挙の投票のまっただ中の時間である。夕方に向けて投票へ向かう人の足が鈍るだろうなといいあう。それ以外は何も変わらない日曜日の午後。そして一夜が明けて、夏のような快晴。選挙は自民の圧勝で終わる。全部がすんだような錯覚に陥るが、問題は何一つ解決していまい。これからである。2005年9月12日に想う。

2005.9.12